現在放送中のNHK朝ドラ「おちょやん」。昭和初期から女優として活躍された浪花千栄子さんをモデルとして、コミカルに、ときにはしんみりと”おちょやん”の人生を描いています。今朝もいつものように朝ドラを見ていたら、成田凌さん演じる天海一平が新しい喜劇を立ち上げる思いを真剣に語っている場面がありました。でも私がつい注目してしまったのは成田さんのイケメンじゃなくて、こちら!
そう「ほねつぎ」という看板です!おそらくドラマの時代は昭和初期、そのころの「ほねつぎ」=接骨院とはどんな感じだったのか、そもそも「ほねつぎ」の歴史とはいかなるものだったのかをご紹介します。(参考:「柔道整復理論」社団法人全国柔道整学校協会監修)
古代~中世日本の医療
ほねつぎ=骨を接ぐ、という骨折や脱臼などに対する外科的治療は有史以来行われており、その経験の累積と海外からもたらされた医療が融合し、現在の医療技術体系へと発展してきました。
中国との交流では、遣唐使の時代に日本から医学留学生を送っており、国家の事業として医療技術導入を行いました。現存する日本最古の医書「医心法」(丹波康頼、984年)には、脱臼・骨折、打撲、創傷等外傷についての記載があります。
14世紀には「金創医」と呼ばれる刀や矢で受けた傷の外科的治療を行う外科医のことが書物「金創療治鈔」に記述されています(また、金創医から産科医が生まれました)。
臨済宗の開祖栄西禅師は宋にわたった際お茶の種や飲み方を持ち帰り『喫茶養生記』を記しました。当時はお茶は眠気覚ましの薬ととらえていたようです。庶民の間では経験的なものやまじない的な医療が一般的でしたが、次第に栄西などが中国から持ち帰った医療技術が民間に広まっていきました。
戦国時代の外科的医療
戦国時代、武道の書物の中には【殺法】武技について、【活法】骨折、脱臼、打撲、捻挫等の外傷の治療についてが記載され、活法にはさらに出血や仮死者への蘇生法なども含まれていました。1619年には、明から来た陳元贇(チン・ゲンピン)が柔術を長州浪人福野七郎右衛門正勝らに教えたとされています(諸説あるようです)。
江戸時代の外科・整骨術の発展
16~17世紀にはオランダ、イギリス、ドイツ、フランス等の医科学が流入し、杉田玄白「解体新書」(1774年)を始め、西洋医学の研究が盛んにおこなわれました。中でもフランスのアンブロワズ・パレの外科学の影響は大きかった。
・三浦楊心(三浦流柔術の祖)整骨術を発明
・吉原元棟(武人)「整骨要訣」
・二宮彦可、各務文献 中国医学を取り入れ修正「正骨範」
・華岡青洲(いわずと知れた紀州の偉人!)「華岡青洲整骨秘伝図」「春林軒治術識」
・高志鳳翼、名倉直賢 江戸末期整骨術
など、外科、整骨術は一応の頂点に達しました。
Zorac歴史サイト – 床屋外科
「二宮彦可「正骨範」」島根県柔道整復師会HPより
「華岡青洲の手術図と脱臼整復図」 ここは医史学の真柳研究室ですHPより
明治以降近代
当時の日本の医師は漢方医が圧倒的多数を占め、医師やほかの医療関係者の資格制度はなかったためそれら医療関係者の技能は低かったのです。そのせいで国民の健康衛生状態も悪かったため日本に近代的な医事衛生制度を導入すべく制定されたのが「医制」で、医師免許制度の確立から医学教育を含めた衛生行政全般にまで及びました。明治7年の制定後、明治14年には漢方医学の廃止に伴い古来の整骨術はほとんど顧みられなくなりました。明治45年に柔道家による接骨業公認運動が開始、大正2年に「柔道整骨術公認期成会」を結成して復活運動を繰り返した結果、大正9年に「あんま術営業取り締まり規則」の準用により「柔道整復術」という名称で公認され、第1回資格試験が行われました。
近代柔道整復術の基盤は近代西洋医学を取り入れた医学の一部として発展しました。医師または柔道整復師の下で柔道の教授をなすものであって、4年以上臨床実習したものに受験資格が与えられましたが、当時はまだ「あんま術営業取締規則」の付則であって、法的基盤は弱かったのでした。
ちょうど「おちょやん」の時代背景はこの頃ですね!柔道整復が新しい憲法で認められたものの、まだ法的には「あんま術」の一部の技術であったようです。
戦後の柔道整復術
昭和26年に柔道整復師、はり師、灸師も学校を卒業して資格試験を受けることになりました。学校養成施設による柔道整復師の養成が始められ学校教育による免許制度が制定されました。業務内容は大正9年当時のままでしたが、柔道家のためのものという色は薄れ「柔道の素養」を条件とするようになりました。昭和45年に「柔道整復師法」として単独の法になり51年には指導要領が定められそれにより教育内容も整備されました。